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2020年12月22日 更新

有形文化財
建造物
絵画
町指定文化財 肖像画
東京国立文化財研究所(現在の東京文化財研究所)にて、サインはないが80%黒田清輝の作品と考えられるとされ、「伝黒田清輝筆」とすることが望ましいと鑑定されました。初代明覚小学校長小室勤氏の肖像画です。
彫刻
町指定文化財
木造十一面観音菩薩立像
坂東三十三所観音霊場九番札所慈光寺観音堂内に納められています。像高179.3㎝、材ははっきりとしませんが針葉樹材による一木造りです。様式から室町時代の制作と思われ、畠山重忠ゆかりの像とも伝えられています。
木造十一面観音菩薩立像
町指定文化財 銅造阿弥陀如来立像
五明円通寺に伝わる本尊仏です。本来は善光寺式三尊の中尊であり両脇侍を従えていたものと考えられます。鋳造による銅造で、高さは61㎝で螺(ら)髪(はつ)は無文です。右手は胸の前にあげ五本の指を伸ばして「施無畏(せむい)印※」、左手は人差し指と中指だけ立てて、他の指は握る「刀印(とういん)」を結んでいます。全体に素朴でおおらかな作風です。新編武蔵風土記稿では「寺僧ノ話ニ此像ハ、下青鳥村ノ城主、高瀬弾正高広ト云ヒシ人ノ寄付ナリト云フ」と記され、伝来の由来を伝えています。像の背中には「寛正四年癸未四月十五日作之 大旦那藤原朝臣經宣(カ カ) 大工實吉」の陽鋳銘※があり、ほほ確実な制作時期(1463年)などが分かります。
※印 仏像の手の形や組み方のことで印相とも呼ばれます。仏の御利益や意志などを象徴的に表し、仏像を見分けるときの重要なポイントにもなります。
※陽鋳銘 鋳造時に鋳型に窪みをつけて凸型に表現された銘文で鋳造時と一体の銘文
町指定文化財 木造毘沙門天頭部
龍福寺阿弥陀堂の脇侍である江戸時代の毘沙門天像の修復作業中に胎内より発見されました。現存高35㎝、一木造り、彫眼により作成され、大きさからほぼ等身大の木造であったと考えられます。虫害のため破損が進行していますが、様式から平安時代後期の11世紀前後のものと思われます。胎内へ納入した経緯を記した木札が同時に発見されています。
町指定文化財
木造観音菩薩坐像
多武峯神社境内にかつて所在した観音堂の本尊です。像高37.2㎝、ヒノキ材を一木から彫り上げ彩色を行わず木肌を活かした素地仕上げとしています。全体に素朴な作風ですが、様式から室町時代の制作と考えられ貴重な作例です。
木造観音菩薩坐像
工芸品
町指定文化財 )鰐口(慈光寺)
元禄8年(1695)に再建された慈光寺釈迦堂(昭和60年焼失)の軒先に掛けられていたものです。銘文には「四十世学頭翁鎮」「見性法師」がみられ、江戸時代の慈光寺一山の復興に活躍した僧侶名が刻まれています。
考古資料
町指定文化財 円通寺板碑群
五明円通寺に伝わる板碑群です。一般に板碑は西暦1500年代になると、その造立が減少傾向となり西暦1600年を前後する江戸時代の始まりの頃には、ほぼ終息します。五明地区には、この終末期の減少傾向にある時期の板碑が多く所在し、特に円通寺には民間信仰板碑と呼ばれる「申待」「庚申待」銘を含む大型民間信仰板碑が4基集中します。これらの碑面には文字資料が残され、戦国時代の村の様子を伺う貴重な資料となっています。写真は、円通寺板碑群を代表する高さ2mの大型民間信仰板碑で、他の板碑は現在、教育委員会委員会へ寄託されています。
町指定文化財 多武峯板碑群
緑(りょく)泥(でい)石(せき)片岩(へんがん)(通称下里石)製の板碑群で断片も含め31基が所在します。多武峯周辺より集められたものと考えられますが、年代の判読できるものは、正和(しょうわ)6年(1317)~永(えい)禄(ろく)11年(1568)の約250年間にわたります。この時期は、多武峯で宗教活動が活発化する時期にも重なります。これらの中には、六(ろく)観音(かんのん)・六地蔵(ろくじぞう)図像(ずぞう)板碑など板碑研究に当たって何度も取り上げられている貴重な板碑が含まれています。
※ 修験道とは、修行により霊力を得ようとするもので、山岳信仰と仏教、神道等が混成した日本独自の宗教です。山伏姿や法螺貝などが一般的なイメージです。
古文書
町指定文化財 前田利家禁制
大字玉川の光明寺に対し、戦国武将で後に加賀百万石の太守となる礎を築いた前田利家が下した禁制です。豊臣秀吉の小田原北条攻めのおり、その臣前田利家は北国軍として群馬県碓氷峠越えで関東へ侵入し、北条方の支城を次々と攻略して行きました。この文書は、比企地方の拠点松山城攻めの前後に光明寺に下したもので、内容は治安の維持回復のために自軍の乱暴、放火などを禁じたものです。なお、この古文書では「妙覚郷 光明寺」と記され注目される資料です。戦国期の妙覚郷の範囲を想定する貴重な資料となる可能性があります。
東光寺に伝わる古文書で戦国時代の松山城主上田長則と憲定から下されたものです。
戦国時代の比企地方は上田氏の勢力下にあり東光寺は日蓮宗に縁深い上田氏により開かれました。
長則の文書は天正9年(1581)、憲定の文書は天正15年(1587)に出されており、
いずれも寺を保護するための「法度」です。
町指定文化財 切支丹制札
戦国時代に伝来したキリスト教は当初織田信長等の保護により各地に広がりました。
江戸時代になって徳川幕府はその教えや外国の侵略を恐れ禁制としました。
特に、寛永14年(1682)の島原の乱後は厳しく切支丹訴人の制札が掲げられるようになりました。
根際の小沢家には天和2年(1682)ほか三枚の切支丹制札が残されています。
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